この北町で (164)  −あの人この人−  

  四小界隈の文人と幼友達の想い出(1)
                                  
                 北町2丁目  吉田 邦郎 

 私はもう四分の三世紀、二歳ときから北町コミセンの一ブロック北、
月見小路沿いに住んでおります。吉祥寺は想い出の一杯つ
まった町です。
第二次世界大戦開始前後の第四小学校界隈の想い出を少し語ってみましょう。

 この辺には、昔から沢山の文人が住んでいました。私の記憶に残るもっと
も古い方はフランス文学の辰野隆先生です。まだ家並も疎らな月見小路をス
テッキをつき葉巻をくゆらし、悠然と散策してお出ででした。幼い 私も、
母から教わったのか、エラ先生ということを何となく理解していました。
 
 その頃の私は吉祥寺通り東側、立野町の近くにあった栄和幼稚園に通って
いました。園長はサイバート・リリーという米国人の女性で、数年後、戦争
が始まると母国に送還されました。
その日のことは今でも覚えています。
この幼稚園の同窓には、四小や成蹊中でも一緒だった友人が多数おります。

 もう一人、辰野隆先生よりは少し後の文人を紹介しましょう。上田辰之助
先生です。北町の皆さんは、東町公園の西側に上田
外国人教師宿舎があり、
その角に上田先生ご夫妻のレリーフがあるのをご存知でしょうか。此処は一
橋大
教授だった上田先生の屋敷跡です。先生は大塚金之助先生などと共に
「一橋の三
之助」と謳われた名教授で、教え子には大平正芳元首相などが
います。

 八〇歳過ぎの生き残りの教え子達は同窓会のあと、今でもこのレリーフの
所に
立ちます。先生は私が大学生になる少し前に他界され、残念ながら私は
その謦咳に接することはできませんでした。

 ここまで書いてきたら、もう紙数が尽きそうになっています。あとは主に
お名前だけを列挙するに止めます。天野貞祐、ヘルマン・ヘッセなどドイツ
文学の翻訳者・高橋健二、「東大の三太郎」の一人でマルクス経済学の山田
盛太郎、宮田重雄画伯、「裸
者と死者」の翻訳者で英文学者の山西英一、
「夕焼け小焼け」の
作曲者・草川信、東洋美術史の権威で歌人の金原省吾、
俳人の中村草田男などの諸先生です。草川、中村の両先生には成蹊中学で
直接ご指導を受けました。竜頭蛇尾となりましたが、幼友達の話はまたの
機会にいたします。