この北町で(212)−あの人 この人−

「私の北町」

      北町1丁目  山形 為次

私は現在94歳です。武蔵野市には昭和17年頃、大信の富士見通りの下宿屋に住み、そこから中野区の学校に通勤しました。中野から成蹊学園に移って、学園内の空き家に住み、素晴らしい教師群に囲まれ、何とか過ごすことになりました。

 先日第一ホテルの車屋で第二回目に担任した子供たちがクラス会を開き、招待されましたが、彼らはもう75歳、ビックリです。成蹊の理事長をやった天坊昭彦君など昔のつわものどもが、昔話に花を咲かせ懐かしい思い出にひたりました。社会科学習の時間に五日市街道に行って交通調べをしましたが、当時は自動車が一台通ると次の車がなかなか来ないので困りました。それが今では数えるのが困るほどの交通量。雨の日には五日市街道が舗装されていなかったので、車が通る度に泥水をはねるのでそれを防ぐ方法を真剣に教えたことなど夢のよう。

 北町の現在コミセンがあるあたり一帯にはマッチ箱が2つ並んだような舎宅が連なり、子供たちはその広い空地の中で遊び、模型飛行機を飛ばしたり、いろんなゲームで終日遊びました。現在は幾棟ものマンションが立ち並ぶ景観。昭和何年頃か忘れたが大雨が降った時、コミセンの郵便ポストがある辺りまで大水が出て巨大な用水池となり、井の頭池からボートを持ってきて、地域の住民は二階の窓からボートに乗せられて買い物に出かける嘘のような話。私の同僚の赤堀先生のお住まいが、この南側にあったのでお見舞いに行ったら、先生のお宅の押し入れの中段まで水につかっていたので驚きました。水は成蹊東門通りとコミセンを南北に結ぶ中間あたりまで水没していたのです。

 コミセンの東側一帯には広いテニスコートがありましたが、ここに老人ホームが建てられ、その完成を祝ってイギリスの女王様がお見えになり、私は大勢の観衆の後ろから眺めたことを思い出します。私の亡くなった家内もここでお世話になりました。思い出は尽きません。

 第四小学校は孫たちの母校ですが、現在はすっかり建て替えられて立派な学校になりました。私たち一家も学園の外に住居が移って、成蹊高校のグラウンドの北側に住むことになりましたが昭和32年、松本製材所の先代の奥様が「先生、やっぱり良い教育をするには安定した生活が必要、それには自分の家を持つことだ」と勧められ、懇意にしていた並木さんの先代のご夫妻を紹介されて今の家ができたのです。今は松本様も並木様も遠い昔の思い出になりましたが、いつも感謝しています。

 坪一万五千円(百坪)、お金がないと相談したら太平信用金庫を紹介してくれて、私の月給から毎月お返しすれば良いことになり感謝感激でした。本当に私は良い方々に恵まれ、私自身素晴らしい人生だったなあと、しみじみ天を仰ぐ武蔵野の94年の人生です。

 今は足腰が悪く、週に2回、八幡町の「わかば」に送迎車で行き、楽しませていただいています。