この北町で(219) ーあの人 この人ー



         なないろの物語、つなぐ吉祥寺

武蔵野市立第四小学校 

                       PTA会長 小野 圭子    

ふと目覚めるとメジロ、コマドリ、オオルなどのヒナのさえずり、鳥の声で溢れていま
した。ここは武蔵野、独歩の描いた「山林に自由存す」を口ずさみ、教育実習の準備に心
はやりながら起きると・・・十歳になったばかりの我が子の横にいる自分が。2015年
4月1日、二度寝したついでに夢も、二度見たようです。まだ一年余り前のことですが、
親子三人での転居に、我を忘れる日々でした。再びここに住むという日常に。

 私が最初に吉祥寺北町の住民になったのは、かつての3000系井の頭線のコロンとし
た形と、独自のレインボーカラーに惚れ込んでしまったためです。一人暮らしをするには
、愛着と安心感が必要です。当時も、駅に降り立つとツグミらしきさえずりが聞こえまし
た。そこでは、宅地であっても木々や草花を愛し、幾代にも残している土地柄がうかがえ
ました。緑の多い中で鳥が巣を作るように、私も深呼吸できる心安さで学生時代を送る地
盤ができました。ただし、居心地の良い家族から巣立つには、助走が必要でした。

後押ししてくれたのは、二人の女性です。両者の間には、何のつながりもないと思って
いま
した。ただ、祖母に吉祥寺の大家さんのお名前を告げた時の時めくような、切ないよ
うな表情は今でも忘れません。
そして、新築のハイツに入居するまでの二か月間、私と祖
母は一つの物語を共にすることになるのです。

 かつて、麦畑・桑畑の向こう、ヒバリのさえずる農村が戦場に変わってしまったという
現実がありました。祖母の体験したのは、群馬県を縦断する利根川の河川敷を利用した中
島飛行機製作所の工場です。この辺りは、航空戦力の中心であったが故に、爆撃の重要目
標とされ多くの命が地下に眠ることとなりました。祖母は、婚約者を失い、兄姉も亡くな
ったため、その子どもたちを育てるのに生涯婚期を見送ったそうです。その境遇と同じ道
を歩んだもう一人の女性が、吉祥寺北町にいました。現在、武蔵野中央公園となり、原っ
ぱの広がるこの地がかつての中島飛行機武蔵製作所であったことを教えてくださった大家
さんです。別の場所で、時を同じくして、女性二人が婚約者を失うという、同じ痛みを持
ち合いました。その後、文通という形で私の祖母と哀しみを分け合った、その方の飾らな
い微笑には意味があったのです。祖母のこよなく愛したリンドウの
花を、かつての下宿先
で見つけた時、この奇縁を大切にしたいと思いました。

 今ここ吉祥寺北町でたくさんの思い出と優しさに守られながら、鳥の声と一緒にそれら
が語りかけてくるささやきを聞いています。それらの向こうには、果てしない歴史と未来
へ続く青空が広がっているのでしょう。今度は、子どもたちを主役として物語が始まりま
す。私は感謝をこめて、巡り来る時とこの地でのつながりを信じて、第四小学校のPTA
会長を精一杯務めさせていただいています。