この北町で(232)― あの人この人

   人麻呂って何をした人?

                                 北町3丁目 稲盛 耕二 

 昭和四十四年でしたから、私が四十歳になった時以来北町三丁目に住まわせていただいて居ります。そのころから毎日散歩する習慣が身についていたようで、現在も続いています。若い頃には、成蹊大学の桜並木の通りを西へ抜けて、市役所の横から中央公園へ、そして公園内を二周して帰って来ることを、毎朝くり返していたと記憶しています。お陰様で現在も歩くことはいといませんが、一時間以内にとどめ、疲れることのないように風の涼しい夕方などを選んでいます。五十年近く散歩を楽しみ、しかも前の日にまとめた原稿のことなどもゆっくりと思い起こして考える豊かな時間を過ごしえたのは、何よりもこの町の静かで落着いた雰囲気のお陰だと感謝して居ります。
 九十歳も近くなりましたが、まだ仕事もできると考え『万葉集』が1300年前にどのように作られたのか、若い人達と少しずつ明らかにさせてきました。とくに柿本人麻呂が漢字でやまと言葉の創作歌を最初につくり始めた人だったこと、人麻呂歌集の歌は、明日香の官人たちの作歌の参考書としてつくられたらしいことなど、多くの人の賛同を得つつあります。
 『柿本朝臣人麻呂歌集』の最も古い部分(680年以前の作)を「古体歌」と呼んでいますが、漢文訓読の方法の逆用を想像させるような、助詞・助動詞の極端に少い書き方の歌です。
 それよりも、やや多く漢字で付属語を記そうとしている歌を「新体歌」と呼ぶのは、書き方の工夫を認めてのことで、古体歌よりも読み易くなっています。

  何時 不恋時 難不有 夕方任 恋無乏

(いつはしも こひぬときとは あらねどもゆふかたまけて こひはすべなし)…古体歌


  垂乳根乃 母之手放 如是許 無為便事者 未爲国

(たらちねの ははがてはなれ かくばあり すべなきことはいまだせなくに)…新体歌

前の歌は、「宵闇せまれば 悩みは果てなし」という昭和の流行歌を思い起こさせますが中国の詩の影響が「無乏」に認められます。
 後の歌はうら若い女性の初恋の歌です。人麻呂は女性の歌を、女性より上手に詠んだ歌人でした。 その歌のレトリックが、中国のみでなく、シルクロードのさらに西の、ヨーロッパのレトリックの影響も受けているのではないかと、目下確かめているところです。
 また現代詩人の中村稔さんが「人麻呂の歌のような詩が作られたらと思っている」と記しているのを読んだことがありますし、大岡信君(旧制高校・大学の同期でした)も『古典を読む 万葉集』に人麻呂を情熱的に語っています。
 人麻呂を「歌のひじり」(歌聖)と古今集等に記しているのは、俳聖芭蕉と同様に、はじめた人としての敬意をこめての事だったのでしょう。
 文字を持たなかった日本人が漢字を使いこなした上に、「ひらがな」「カタカナ」までを生み出すキッカケを人麻呂が作ったと、私は考えています。